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川崎に基盤を置き「恩返し」を行い、東南アジアでも店舗展開 - e店舗 produced by G-FACTORY

作成者: tetsuyuki_chiba|Apr 12, 2019 6:41:08 PM

京浜急行本線川崎駅の東側には大きな商店街が形成されていてその賑わいは「昭和」の風情を感じさせる。この中に「いさご通り」が横切っているが、これは旧東海道でそこはかとなく古い歴史が感じられる。この通りに面して「型無夢荘」という店が江戸時代の旅籠屋をイメージさせる店構えで異彩を放っている。

旅籠風にまとめられた「型無無荘」の店頭

同店を経営しているのは型無株式会社(本社/川崎市、代表取締役/矢野潤一郎)で、他に「型無一心」「和かふぇ かたなし」を川崎に出店している。社名の由来は「型にはまること無く 自由な発想で お客様が喜ぶこと最優先。」ということだ。

同社ホームページで代表取締役の矢野潤一郎氏は、「川崎への恩返し」「雇用の革命」「おもてなしの輸出」をアピールしている。事業内容は川崎に拠点を置きつつ、東南アジアのシンガポールに2店舗、カンボジアに2店舗と二つの視座で進められている。事業の進め方として稀有な存在と言ってもよいのではないか。

型無株式会社代表取締役の矢野潤一郎氏

青年期にかけてグローバルに飲食店を渡り歩く

この背景は、矢野氏の波乱に満ちた生い立ちによってもたらされている。
矢野氏は1980年6月生まれ、横浜で育つ。矢野氏の父は商社に勤務していたが、矢野氏が14歳の時にカナダのバンクーバーに家族で移住することになった。バンクーバーの地元の中学校に転入し、突然友人がゼロで、言葉が分からないという状態に置かれた。しかしながら、半年間ほど経過してから自然と馴染んできたという。

その後、学校は自主退学して、家を飛び出して一人暮らしを始め、生活をするために飲食店で働いた。17歳の当時、最初は寿司店で「日本人が経営する店であれば雇ってくれるだろう」という程度の動機だったという。その後、現地の寿司店を5店舗ほど渡り歩いた。
19歳の当時、バンクーバーの「くいものや楽」に出合う。東京・下北沢を本拠地として店舗展開をしていた楽コーポレーションが出店したもので、この店との出合いが矢野氏の人生を変えた。
寿司店に勤務していた当時から同店で食事をすることがあったが、同店で働きたいという思いが募り、その願いが叶った。
その後、同店の店長が同店を楽コーポレーションから譲り受けることになり、その後多店化し矢野氏は店長を任されるようになった。こうして同社で24歳まで働いた。

上海の日本料理店で経験したある疑問

同店での経験によって矢野氏は飲食業がすっかり好きになった。キッチン、フロアのオペレーションを覚えて、マネジメントも学んだ。「生きていくための基礎が整った」と感じたという。そして「27歳で独立しよう」と目標を立てて、「それまでの間にもう少し他のことを経験しよう」と考えた。

この時、現地の中国人に友人から「上海の日本人の友人が日本料理店を経営していて、2号店を出店するのでマネジメントができる日本人を探している」と紹介された。矢野氏としては、「27歳で独立をするので、立ち上げの1年間だけでよいか」ということの了承を得て、1年間の契約社員として働いた。

この上海での1年間の経験が矢野氏の人間性を鍛えることとなった。
それは「雇用環境を整える」ということを、中国人スタッフと親しくなっていくにつれて深く考えるようになった。

就任当初は、店が夜11時30分に閉店すると15人ほどいる中国人スタッフがすぐに返ってしまうことに辟易していた。洗い場に皿や食器が山のようになっているのにも関わらずである。皆が帰ってから矢野氏は1人店に残り、朝の3時頃まで洗い物と格闘していた。
「みんなでやれば30分で終わるのに、なんで皆11時30分に帰ってしまうんだ」
こんなことをつぶやく毎日であった。
矢野氏は日中、中国人スタッフに熱くビジョンを語っていた。しかしそれが全く伝わらない。このような日常が悔しくてたまらなかった。

中国人スタッフの実態に触れて人生観を決定づける

それが3カ月ほどしてから中国人スタッフのパーティに誘われた。
「僕たち毎月最後の日曜日に皆で家に集まってパーティをやるんです。今度来ませんか?」
中国人スタッフの給料は生活費ギリギリである。その中から僅かのお金を出し合って、料理を作り、見たことのないラベルのビールを飲みながら食事をしていた。
住まいは打ちっぱなしのコンクリートに2段ベッドが置かれているが住人の数を満たしていない。彼らは、田舎からやって来て、ここで共同生活をしていて、実家に仕送りをしていた。

彼らはなぜ11時30分の閉店後に、皆すぐに帰ってしまうのか。
「社長から『ダブルワークは禁止』と言われていましたが、実は店が終わってから別のバーで働いているんです」
このような生活をしなければ家に仕送りをすることができない、という現実があった。
食事が一段落をして誰かが海賊版のCDをかけたら皆が盛り上がった。矢野氏は彼らのつつましい生活に初めて触れた。

この時、矢野氏にこうひらめいた。
「心の幸せとはお金とイコールでない」

そして、将来、東南アジアの若者たちがきちんとお金を稼ぐことができる飲食店を営んでみたいという思いが湧いてきた。
「現地の若者たちにきちんと給料を払うことができる飲食店をつくれば、店の中にきちんとチームはできるはずだ」
このような思いが、その後シンガポール、カンボジアに出店して実現することになる。

上海での日本料理店長1年間契約の終了が近づいて、上海ないし東南アジアで起業しようと考えた。しかしながら、上海の日本人経営者たちから、矢野氏の考え方は「偽善に過ぎない」と言われた。矢野氏はこのような心無い言葉に悔しい思いをして、東南アジアに近い日本で起業して、そこで基盤をつくってから東南アジアで展開しようと考えた。

「てっぺん」で「無限の可能性」を取得する

日本では、2005年12月に居酒屋甲子園創始者の大嶋啓介氏が率いる有限会社てっぺんに入社する。入社の動機は、経営専門誌を読んだところ「朝礼が熱い居酒屋」ということが書かれてあり、その様子に引かれたからだ。ここで働く中で「無限の可能性を取得した」という。

2007年3月にてっぺんを退社し、独立準備に入り、同年9月に東京・学芸大学に「型無」をオープン、その後三軒茶屋、下北沢と出店していく。
物件を探している過程で川崎を紹介された。初めて川崎に降り立った時に、川崎に「カオス」を感じ、「この街は面白い」と興味を抱くようになった。
そして、2010年10月川崎駅前に「型無一心」をオープンした。

東南アジアでの展開は、2012年5月シンガポール、2015年8月カンボジアと出店して、前述したように、現在それぞれの国で2店舗ずつ出店している。先にシンガポールに出店した理由は、ここで情報を集めて、財務の基盤をつくり、そこから東南アジアに広げていこうと考えたからだ。

矢野氏が東南アジアに足しげく訪問するにつれて日本での運営を効率の良いものしようと考え展開エリアを1カ所に絞ることにした。当時同社では5店舗を展開していた。それが川崎となったのは、5店舗の中で川崎に2店舗あったこと。前述の通り、川崎の街の雰囲気に魅力を感じていたこと。また、羽田空港に近い等々、さまざまポイントから川崎を選んだ。
ここから「川崎に恩返し」という矢野氏の地元愛が醸成されて行く。

従業員がテキパキと行動し活気あふれる「型無無荘」の店内

従業員にプロとしてのプライドを植え付けていく

居酒屋の2店舗ともにメインのメニューとして「馬刺し」を打ち出している。川崎にはチェーン系の居酒屋が多く、型無がそれを打ち出した当初なかなか川崎のお客様に浸透しなかったという。しかしながら、その食味の価値の高さが知られることにつれて、川崎の人が誇りを抱く店となって行った。また、「型無夢荘」では馬刺しに加えて「蒸籠料理」を名物にして特徴を際立たせている。

 

居酒屋の客単価は現在アップさせる取り組みをしていて、「型無一心」は3800円から4200円へ、「型無夢荘」は4500円から5000円を超えるよう工夫をしている。
客単価アップを目指す理由について矢野氏はこう語る。
「私は大衆やらネオ大衆という世界を望んでいません。川崎の人にきちんとしたクオリティの高い価値を提供し、従業員にもプロ意識を持ったプライドを植え付けていきたい」
矢野氏がこれまで経験したことが、「プライド」というミッションをもたらした。

馬刺しをフードメニューのメインに据えている

もう一つの名物「蒸籠料理」ではお客様が好みの野菜を盛り込むことができるのも魅力

志を同じくする経営者たちと川崎を盛り上げる

矢野氏は「川崎への恩返し」を心掛けている中で「川崎を盛り上げる」という意識が深くなっていった。
そこで、同じ志を持つ地元の経営者3人でサニーワンステップ株式会社を立ち上げ、ブルワリーパブの「東海道ビール川崎宿工場」を2018年12月にオープンした。ここでは年間2万5000ℓが醸造可能となっている。

ここでは醸造家の田上達史氏を招いて、4つのスタイルのビールを提供している。クオリティの高さが評判となって、川崎駅前のにぎわいから少し外れているが、土日祝日には遠方からクラフトビールファンがやって来るようになった。

また、川崎のドリンクメーカーのラムネに川崎のイメージを印象付けるラベルを貼ってもらっている。川崎宿の浮世絵の中に、川崎を象徴する工場地帯、商業施設のラゾーナ川崎や、シネマコンプレックスのチネチッタをあしらった。これらを街のイベント等で販売してもらい、川崎の盛り上がりにつなげようとしている。

矢野氏の取組みには飲食業を通じて社会に貢献しようという姿勢が貫かれている。