2024/07/11
骨太のコンセプトの店を三軒茶屋にドミナント出店
以前紹介したレインボーカンパニーに続いて、東京・三軒茶屋でドミナント出店をしている事例として株式会社和音人(わいんびと、本社/東京都世田谷区、代表取締役/狩野高光)を紹介しよう。
同社は2015年6月「和音人月山」をオープンして以来、現在三軒茶屋に7店舗展開している。オープンした順に列挙すると、2号店が「GYOZA SHACK」「ろんど」「りんどう」「雫月」「華音」「雛音」となる。それぞれの店に骨太のコンセプトが存在し、同社のファンは各店舗を巡ってそれぞれの個性を楽しんでいる。
同社社長の狩野高光氏は28歳で独立を果たしているのだが、独立までに経緯を伺うとその道のりを自ら切り開き自らを鍛え上げている。その飲食業を志すブレのない姿勢に敬意を表したい。
目次
独立に向けて自らを鍛え上げていく
狩野氏は1987年1月生まれ、東京都墨田区向島の出身で「もんじゃ屋」を営む家で育ち、子供の頃から飲食業に親しんでいた。中学卒業後、進学をせずに、アルバイトとして向島の焼鳥店と喫茶店を掛け持ちで働いた。焼鳥店では17歳で「焼き場」に立った。
この後、18歳で地元の老舗ベーカリーに入り新店立ち上げのスタッフとなった。焼鳥店で働いていた当時に炭の香りに親しんでいたが、ベーカリーに入ってイーストや発酵、ナッツなどの香りに魅了された。ここでは19歳で店長に就任してマネジメントを学んだ。
21歳となり、グローバルダイニングにアルバイトとして入社した。ここでは同社の徹底した実力主義に驚かされた。狩野氏の時給は最初900円であったが、翌月には1300円となった。全員が給料を開示していて実力を競い合う環境をリスペクトした。同社では、代官山の「ラ・ボエム」と「タブローズラウンジ」に所属し、1年と少し働いた。
リスペクトする職場を短期間で辞めた理由は、「店舗造作に何億というお金がかかっていて、独立を考えた時にリアルな職場ではないと感じたから」という。
そこで店の立ち上げを経験しようと考え、恵比寿で多業態を展開している会社にアルバイトとして入った。同社は当時とても勢いがあり、たくさんのことを学べるのではないかと考えた。
ここに勤務していた当時、東日本大震災が起きた。それ以降、同社の店は赤字が続くようになり、狩野氏は同社の社長から「うちを支えるために社員になってほしい」と誘われた。
狩野が入社したところ、翌月には黒字転換するようになった。
ここではチームビルディングを学び、webマーケティングの強化に取り組んだ。これが功を奏して店舗展開が進み、同社は7店舗となった。ここで狩野氏は24歳で7店舗全体の統括を担当した。
農業も手掛け緻密な事業計画書をつくり上げる
その後、株式公開を準備しているような状況も見たいと考えて、このような規模の会社二社に1年ずつアルバイトで勤務。この間、人材派遣に登録していて休日には派遣先で働くなど、週7日間働いた。「とにかく、いろんな店舗、いろんな会社を見たかった。200席の店舗の洗い場で1日7時間働き詰めのこともあった」という。
狩野氏は独立するタイミングをどのように考えていたのだろうか。
「率直に述べると、社員として勤めていた会社でそこの社長に一生ついて行こうと考えていました、それはアルバイトとして入った私をナンバー2まで引き上げてくれたからです。しかしながら、同社にはオーナーがいて、オーナーシップが強い体質がありました。その状態を見ていて、自分が独立するのではあれば、自分が完全にオーナーでいなければならないと感じて、こつこつと貯金をするようになりました」
貯金は450万円となり、緻密な事業計画書を作成して、日本政策公庫に持って行ったところ、奇跡的に1400万円を借り入れすることができた。これが狩野氏にとって大きな転機をもたらした。
1号店を出店する1カ月前からワイン用のブドウの苗を植えたり農業も手掛けた。このような社会貢献の視点も加味して事業計画書を作成したことが融資に際して高く評価されたものと狩野氏は認識している。
当初計画では27歳で独立することになっていたが、どこも物件を貸してくれなかった。そこで株式会社和音人を設立した。これから3カ月後に「和音人月山」の物件が決まった。
「社員がやりたい店を出店する」ことが信条
「和音人月山」は「山形県産食材」にこだわった店だ。東京出身の狩野氏が1号店の山形の店を出店したのはなぜだろうか。それは「起業した時に目的としたことは、社員の夢を一つずつかなえていくことだった」という。
立ち上げメンバーであり、現在同店の店長を務める齋藤太一氏が山形県西川町大井沢の出身で、父が町おこしで活躍している。齋藤氏はその父の活動を応援したいという思いがあったことから、和音人の1号店のコンセプトをその町を盛り上げていく存在にした。
ここの町には百名山に選ばれ、夏スキーでも人気の月山がある。店名はそれに由来している。そこで和音人の立ち上げメンバーはオープンする1年半前から、現地の酪農家、農家、酒蔵などさまざまなところと交流をして食材を仕入れるルートをつくった。
1号店がオープンしてから丸4年となるが、この間で7店舗とはハイピッチである。しかも「社員がやりたい店を出店する」ということであることから、モチベーションを高くする人材が集まることによって可能となっていると言えそうだ。
起業をしてから街の人と共に老舗になっていくイメージ
狩野氏は現在「ろんど」の厨房に入っている。同店はこだわりの焼鳥を訴求している店だ。
「焼鳥は自分として好きな料理であり、これを世界に通用するものに育てていきたいと考えています。当社で使用する素材は無化調で、精製された砂糖も使用禁止としていることから、素材の味が濃く力がないとおいしい料理になりません。そこで焼鳥も全国から地鶏や銘柄鶏を入れています」
これらの鶏肉は上質の鶏肉の愛好会に声を掛けてもらったり、素材にこだわる焼鳥店のコミュニティに参画することによって情報を入手している。
「この店は一度失敗したことがある」と狩野氏は言う。オープンしたのは2016年12月、当時は「大衆酒場ブーム」でそのトレンドに追随した客単価3000円の店であった。居心地のよい雰囲気があり、それが災いしてお客様も長居するようになり利益が出にくい体質となった。この経営状況をある人に相談したところ、「ブームに乗るのではなく、自分でやりたい店をやるべきだ」とアドバイスされた。
ここで「自分のやりたものは何か?」ということを一生懸命考えた。それは「世界一の焼鳥屋」ということ。そして業態変更を決意して2017年9月にリニューアルオープンした。客単価は7000~8000円となった。
和音人が三軒茶屋にドミナントを築いているのはなぜだろうか。
「私が飲食業を勉強していた当時、代官山や恵比寿で長く働いていました、その過程で、ここにはアンテナが高い人がたくさんいるが、街としての成熟度が低いと感じていました。私にとって成熟度が高い街とは、中野、学芸大学、三軒茶屋で、起業をしてから街の人と共に老舗になっていくイメージです」
「起業をするに際して、最初からランチェスター戦略にある局地戦で戦っていこうと考えて、ドミナント展開をすることで地域のシェアを獲得しようと考えました。その点、三軒茶屋は結構飲食店の移り変わりがあり、また3店以上展開しているような店が存在していないことから当社のような存在が勝てるのではと考えました。とにかく、店舗数においても年商においても3年間で三軒茶屋の地域一番になろうと考えていました」
こうして和音人は三軒茶屋に現在の地位を築いている。
客単価を上げて外食の地位向上を図る
和音人の店舗は料理のクオリティが高いと同時に客単価も高い。餃子の店は3500円だが他の店はどれも5000~8000円のレベルになっている。この狙いについて狩野氏はこう語る。
「日本の外食の価格は安いと認識しています。どちらの店も現状のものから1000円、2000円上げるべきでしょう。私はこのようなところから日本の外食の地位向上を図っていきたい。そういう意味で私たちの店がモデルケースとなって他に広がって行ってほしい」
月山がオープンした当時の客単価は6000円であるが、当時の三軒茶屋ではこのマーケットは空白だったという。そこで月山はブルーオーシャンの中で営業したという。その後、三軒茶屋に新規参入するところは類似の客単価でレベルの高い営業をするところが増えていった。このような動向が三軒茶屋の魅力を高めていると狩野氏は分析している。
狩野氏は三軒茶屋の街づくりにも積極的に関わっている。地元の商店会に参画する他、年に1度「月山市」という山形テーマのイベントを開催している。昨年は7月1日に三軒茶屋の茶沢通りにある「ふれあい広場」で開催、、雪をトラックで持ってきてもらい、会場の中にこんもりと積み上げた。山形の生産者には団体バスで来てもらい、山形産のアピールをしてもらった。これには道行く人も参加して数千人の規模でイベントは盛り上がった。
三軒茶屋には飲食業の伸びしろというものを強烈に感じる、それは商業施設で表現されるものではなく、新しい路地裏が誕生していく感覚である。和音人が展開する店のようにクオリティが高く個性的な店が増えていくことによって、三軒茶屋はますます魅力を高めていくことであろう